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木村と関沢
〜二人の特撮映画脚本家〜


東宝特撮映画の流れを追う上で忘れることができないのが、数多くの作品の脚本を手がけ、シリーズの土台を構築したとも言える二人の脚本家、木村 武(馬淵 薫)関沢新一ではないかと思います。東宝特撮映画は円谷英二存命中にその成果の大半が制作されているわけですが、東宝の制作ラインナップの中で「特撮映画」というジャンルを確立した1954年の「ゴジラ」から、1975年の「メカゴジラの逆襲」(第1期ゴジラシリーズ終結)辺りまでの約20年間というのが、時代的にはひとつ大きな区切りだと言えるでしょう。

考えてみれば「ゴジラ」を契機とする東宝特撮映画は現在に至るまで延々とその命脈を保ち続けている訳ですが、この期間の東宝特撮のカラーの変化というのは、東宝特撮を取り巻く環境の変化と併せて、実はこの二人の脚本家による作劇手法の変化による影響が大きいのではないでしょうか?ここでは木村 武、関沢新一という二人の脚本家に焦点を当てて、東宝特撮映画の系譜を振り返ってみたいと思います。

【経歴】

■木村 武〔きむら たけし〕/馬淵 薫〔まぶち かおる〕
本  名 馬淵 薫
職  業 シナリオライター
生  年 明治44(1911)年2月4日生 出生地:大阪市
没  年 昭和62(1987)年5月3日没(76歳 肺がん) 没地:立川総合病院
学  歴 関西大学中退

職歴・経歴
在学中社会主義運動に入り、昭和5年と15年共産党事件で起訴入獄。戦後は共産党滋賀県委員長をつとめた。かたわらラジオドラマ、戯曲、小説を数篇発表。25年離党。26年シナリオライターを志望して上京、八住利雄に師事した。主な作品に「赤線基地」「空の大怪獣ラドン」「地球防衛軍」「妖星ゴラス」など、怪獣映画のシナリオが多い。昭和40年からは筆名を馬淵 薫に変更した。

交友関係
=八住利雄(脚本家)

■関沢新一〔せきざわ しんいち〕
職  業 シナリオライター;作詞家
加入団体 日本作詩家協会;日本シナリオ作家協会
生  年 大正9(1920)年6月2日生 出生地:京都市
没  年 平成4(1992)年11月19日没(72歳 心筋こうそく) 没地:渋谷区南平台(自宅)

職歴・経歴
昭和14年から京都で漫画映画の製作に携わるが、16年応召、21年復員。23年清水宏主宰の「蜂の巣プロ」に入り、助監督として清水宏に師事。その後は主に娯楽映画のライターとして活躍、特に「モスラ」「キングコング対ゴジラ」などのSF映画でその独創力を発揮した。歌謡曲の作詞家としては1000曲以上の作詞をし、「涙の連絡船」などヒット作も多い。また熱烈な鉄道ファンで、写真集「滅びゆく蒸気機関車」「汽車」などがある。

受 賞 歴
日本レコード大賞(第7回)〔昭和40年〕;紫綬褒章〔平成2年〕;シナリオ功労賞〔平成3年〕

【前史】
関沢新一は戦前・戦中期の著名なアニメーション作家、政岡憲三の下でアニメーション映画の製作に携わった後、戦後、松竹出身の映画監督、清水宏の製作プロダクション「蜂の巣映画」で助監督を務め、脚本家としても活動を開始。東宝特撮映画に係わる以前、国光映画(新東宝配給)で自らの脚本・監督による「空飛ぶ円盤恐怖の襲撃(1956)」というSF作品を手がけている(主演は当時新東宝の若手スターだった高島忠夫)。当時としては斬新なデザインの怪ロボット(公開時の雑誌記事では「ダレス」という名前で呼ばれている。)が印象的な作品だが、現在ではフィルムの所在がはっきりせず視聴が難しい為、あまり振り返られる事もない。ただ、本作が契機となって東宝特撮への脚本参加となったことを考えると、後に東宝特撮の屋台骨を支える関沢のルーツは、この作品にあると言えるだろう。

脚本担当作品(掲載作はいずれも特撮映画のみ):各作品の記号凡例は下記を参照
■:怪獣 □:SF ◆:変身人間 ▼:戦記、時代、一般作品

【1956-59:木村脚本による東宝特撮基本路線の定着】

木村 武
■空の大怪獣ラドン(村田武雄と共同/1956.12.26封切)
□地球防衛軍(1957.12.28封切)
◆美女と液体人間(1958.6.24封切)
▼潜水艦イー57降伏せず(須崎勝弥と共同/1959.7.5封切)

関沢新一
□空飛ぶ円盤恐怖の襲撃(1956.11.7封切/国光映画)
■大怪獣バラン(1958.10.14封切)
□宇宙大戦争(1959.12.26封切)

1950年代後半は東宝特撮映画の基本路線が確立された時期といえる。すなわちこの時期に相次いで製作された怪獣、SF、変身人間の3路線の作品が1960年代初頭までの東宝特撮を支えた大きな流れと言えるだろう。これらの内、「ゴジラ(1954)」以来の怪獣路線以外はいずれも木村 武脚本によって路線が開拓されている。基本的に東宝特撮は後に合作路線へと継承される変身人間シリーズを含め1970年頃までは、ほぼこのジャンル分けの中で制作されていた。この時期、各路線のカラーはメイン脚本家である木村 武のカラーであり、生真面目でどこか哀愁漂う作品世界と緻密な構成によって東宝特撮映画の世界を着実に拡大してゆく。この時期はスタッフ、観客共次々繰り出される新たな題材、イメージを楽しんでいたかのように、バラエティ豊かな作品群が次々と生み出され、受け入れられていった。

「空の大怪獣ラドン(1956)」は木村 武の東宝特撮映画第一作であり、東宝初のカラー特撮映画。脚本は「ゴジラ」以降、「ゴジラの逆襲(1955)」「獣人雪男(1955)」と最初期東宝特撮の脚本を一手に手がけていた村田武雄との共同執筆。比較的オーソドックスな展開が主体だったそれまでの東宝特撮シナリオと比べ、特に事件の発端となる炭坑での連続殺人事件の部分にひねりが加えられている。共同執筆者の村田武雄はこの作品を最後に怪獣映画脚本から離れ(円谷英二特撮担当作では山本嘉次郎監督「孫悟空(1959)」が最後)、これ以降木村 武は東宝特撮のエース脚本家となる。

一方、「大怪獣バラン(1958)」で関沢新一が初めて東宝特撮映画の脚本に参加する。松竹、新東宝を中心に活躍していた関沢新一はこの作品以降、活躍の舞台を東宝に移してゆく事になる訳だが、この時期関沢が担当した「大怪獣バラン」「宇宙大戦争(1959)」は、その世界観や作品カラーのいずれもが木村 武の確立した路線の延長線上にあり、後年横溢する軽妙な「関沢イズム」の片鱗は伺えない。2作品ともどこか他人の土俵で勝負しているような居心地の悪さ、窮屈さがあり、円谷英二の華麗なビジュアル・イメージに助けられてはいるものの、正直な処、この時期の関沢新一担当作は木村 武作品と比べ、観ていて余りノレない。しかしながら、その発想力の卓抜さは、既に「宇宙大戦争」の細部描写に現われている。

「宇宙大戦争(1959)」は、東宝特撮映画の中でもかなり異色な雰囲気を持つ作品だ。「ゴジラ」以降、東宝特撮映画が一貫して根底に持っていた原水爆の影が、この作品では極めて希薄なのだ。この映画は当時の東宝特撮(特にSF作品)としてはテーマ的な部分を含め、かなり思い切って娯楽作に振った作りになっており、遊星人ナタールと殆ど対話も持たないまま戦闘に突入していく地球側の描写が、ミリタリー色濃く描かれていて驚かされる。この作品のテーマはまさに目くるめく宇宙空間での戦闘なのだ。宇宙人のロボットにされる人間、「どこからともなく」聞こえる宇宙人のご託宣(木村脚本の「地球防衛軍(1957)」がテレビを通信装置として使い、理屈付けをしていたのとは対照的)等、後年テレビ特撮で定番化する描写は、この作品で既に描かれている。

【1960-64:怪獣映画の娯楽化・関沢脚本の開花】

木村 武
◆ガス人間第一号(1960.12.11封切)
▼大阪城物語(稲垣浩と共同/1961.1.3封切)
□世界大戦争(八住利雄と共同/1961.10.8封切)
□妖星ゴラス(1962.3.21封切)
◆マタンゴ(1963.8.11封切)
▼大盗賊(構成:八住利雄、関沢新一と共同/1963.10.26封切)
▼士魂魔道 大龍巻(稲垣浩と共同/1964.1.3封切)

関沢新一
◆電送人間(1960.4.10封切)
■モスラ(1961.7.30封切)
■キングコング対ゴジラ(1962.8.11封切)
▼大盗賊(構成:八住利雄、木村 武と共同/1963.10.26封切)
□海底軍艦(1963.12.22封切)
■モスラ対ゴジラ(1964.4.29封切)
■宇宙大怪獣ドゴラ(1964.8.11封切)
■三大怪獣地球最大の決戦(1964.12.20封切)

東宝特撮の絶頂期とも言える時期で、円谷特撮の評価が上がるにつれ、特撮をメインにした大作(「白婦人の妖恋(1956)」「日本誕生(1959)」「世界大戦争(1961)」(1961年度芸術祭参加作))も製作されるようになった。だが、この時期のポイントはなんと言っても関沢新一のブレイクスルーとなった「モスラ(1961)」「キングコング対ゴジラ(1962)」の2作だろう。特に「モスラ」に続く「キングコング対ゴジラ」の大ヒットによって、登場人物の小気味良いやり取りやコミカルな演技をフィーチャーした関沢新一のカラーが、これ以降東宝特撮の基調となっていく。実質的には「キングコング対ゴジラ」の時点で、東宝特撮脚本の本流が木村 武から関沢新一に継承されたと考えられるのではないだろうか。「エンターテインメントとしての怪獣対決」が東宝特撮映画の中で決定的な位置を占める事になったターニングポイントがこの「キングコング対ゴジラ」であると言えよう。事実これ以降関沢新一の登板は加速、特に1964年の東宝特撮は関沢新一脚本の独壇場となっている。

一方、次の展開をはかるべく、この時期「宇宙大怪獣ドゴラ(1964)」でSFと怪獣の融合を模索するが、人間側のドラマと怪獣が独立してしまったストーリーとコミカル路線では新怪獣の魅力をアピールするには至らず、東宝特撮の基本路線は関沢新一脚本による手持ちの怪獣スターによる顔見せ興行的な対決路線に追い込まれてゆく事となる。特撮映画がエンターテインメントとして定着し、順調な興業収入を上げる一方、新たな路線展開の手詰まり感が徐々に頭をもたげ始めた時期と言えるだろう。

結局この期間で初期東宝特撮を支えたSFと変身人間シリーズは事実上終結をみたと言って良く、東宝特撮は急速に題材の多様性、バラエティ感を喪失してゆく。

【1965-67:怪獣映画の模索】

木村 武(名義は馬渕 薫)
■フランケンシュタイン対地底怪獣(1965.8.8封切)
▼奇巌城の冒険(1966.4.28封切)
■フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ(1966.7.31封切)
■キングコングの逆襲(1967.7.22封切)

関沢新一
■怪獣大戦争(1965.12.19封切)
▼ゼロファイター大空戦(1966.7.13封切)
■ゴジラ エビラ モスラ南海の大決闘(1966.12.17封切)
■怪獣島の決戦ゴジラの息子(斯波一絵と共同/1967.12.16封切)

怪獣映画の量産体制が整ったこの時期は、年平均2作のペースでコンスタントに新作映画が製作され、お盆の 木村 武 合作作品、年末の関沢新一ゴジラ作品というローテーションが明確に見て取れる。東宝特撮は「ゴジラ」の頃から海外での公開が積極的に行われており、「モスラ(1961)」においてはコロンビア映画の配給で全米公開もされる等の実績があるが、1965年から制作費の負担減とマーケット拡大を睨んでアメリカのプロモーターとの合作に着手した。輸出を前提に、海外でも馴染み深いフランケンシュタインを題材にとるというかなり無茶な選択を行うが、2本のフランケンシュタインシリーズ(「フランケンシュタイン対地底怪獣(1965)」「フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ(1966)」)は異形の者の哀しみを見事に描いた木村 武脚本によって佳作となった。しかしながら、興行面におけるこの時期の主役は完全に関沢ゴジラ作品であり、木村脚本による合作路線は題材選択や外国俳優の多用等、かなりエキセントリックな世界になっており、いわば「従」の位置付けになっていたと思われる。

また、この時期は東宝特撮が「次の一手」を求めて、かなり模索を繰り返していた時期だと言えるだろう。題材的にも怪獣以外の作品は興収の読みが難しく、怪獣路線をとらざるを得ないが、肝心の怪獣も最早怪獣自体を描くのではなく、怪獣の対決や登場人物の軽妙なやり取りといった処に視点が移ってしまっており、新怪獣を魅力的に描き出すような作品は作りづらくなっていた。更に「怪獣大戦争(1965)」をもって、今まで殆どの怪獣デザインを担当していた特技美術監督、渡辺 明が東宝を退社したこともあり、この時期の東宝新怪獣は急速にキャラクターとしての魅力を失いつつあった。

ゴジラ作品においては、「キングコング対ゴジラ」以降の怪獣対決路線も「怪獣大戦争」で頂点を極めてしまった感があり、対決が地上戦に限定されるゴジラは、映像面からいっても従来の作品との差別化が難しくなっていた。円谷英二が「怪獣大戦争」を最後にゴジラ映画の特撮を、事実上有川貞昌に任せてしまった(「ゴジラ エビラ モスラ南海の大決闘(1966)」で特技監督補、)ことも、このことを裏付けるものではないだろうか。この時期はテレビの普及、またウルトラシリーズを初めとするテレビ特撮が、逆に本家である東宝特撮に影響を与えるといった現象が起こり始めた時期でもある。更に、円谷英二が特技監督を外れて以降の作品は、精彩を欠いた新怪獣と「ネタ切れ」感を感じさせるストーリーで、観客にゴジラシリーズの閉塞感を感じさせる結果となった。

【1968-75:激動の東宝特撮】

木村 武(名義は馬渕 薫)
■怪獣総進撃(本多猪四郎と共同/1968.8.1封切)
■ゴジラ対へドラ(坂野義光と共同/1971.7.24封切)
■地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン(検討稿のみ 1972.3.12封切)

関沢新一
□緯度0大作戦(テッド・シャードマンと共同/1969.7.26封切)
■ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃(1969.12.20封切)
■地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン(1972.3.12封切)
■ゴジラ対メガロ(原作。脚本:福田純/1973.3.17封切)
■ゴジラ対メカゴジラ(原作。 福島正実と共同 脚本:山浦弘靖・福田純/1974.3.21封切)

1968年に入ると怪獣ブームにも陰りが見え始め、怪獣ブームの牽引役であった円谷プロのウルトラシリーズも「ウルトラセブン(1967)」後半で予算超過によるスケールダウンや、視聴ターゲットの見誤りによる過度な内容のハイブロウ化によって視聴率に息切れが目立つようになる。同時に東宝も映画業界全体の観客動員数減少に起因するゴジラシリーズの興収低下に歯止めがかからず、制作コストのかかる怪獣映画の制作停止を模索、シリーズの総決算として「怪獣総進撃(1968)」を制作した。

内容の行き詰まりを打破しようと、脚本には連投の疲れが目立つ関沢脚本に替えてゴジラシリーズとしては初めて馬淵薫が起用された。近未来の世界を舞台としたSFテイストの導入で内容の見直しを図った結果、怪獣総登場の顔見世興行的な効果にも助けられて興収は前作を上回った。

1969年、東宝特撮は「キングコングの逆襲(1967)」以来2年振りとなる日米合作作品「緯度0大作戦(1969)」を制作。関沢脚本(テッド・シャードマンの原作を改訂)によるエンターテインメントSF作品として久々の大型特撮映画となるが、同時上映にアニメ作品の「巨人の星」を選択する等の観客層ミスマッチにより興行的に失敗、更に合作相手のドン・シャーププロの倒産による制作費負担増も重なり合作路線の終焉を招いてしまう。

これにより選択肢のなくなった東宝は、結果として「怪獣総進撃」で終了予定だった怪獣映画制作を継続することとなった。

1969年年末には関沢脚本による「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃(1969)」を制作し怪獣路線の復活を図るが、翌1970年1月円谷英二が逝去、1970年3月1日には東宝の社内組織変更の一環として特殊技術課の廃止と映像事業部への再編が行われ、東宝における特撮映画の製作体制は大きく変化して行く。だが、この激変の中でもまだプログラム・ピクチャーとしてのニーズを残していた東宝特撮は「ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦! 南海の大怪獣(1970)」を公開する等、細々ながらも怪獣映画の制作を継続していく。

一方で下火となった怪獣映画に変わるコンテンツとして、アニメ版『ゲゲゲの鬼太郎(1968)」に端を発した妖怪ブームは一時は怪獣映画を継承する路線としての勢いを見せ、大映の映画作品や東映東京制作所のテレビシリーズで盛り上がりを見せたものの、1969年には早くも下火となり、スポ根ドラマにスライド。さらに第一期ウルトラシリーズの再放送や「ウルトラファイト(1970)」の放送による視聴者の潜在需要に気づいたテレビ局による「宇宙猿人ゴリ(スペクトルマン)(1971)」「帰ってきたウルトラマン(1971)」の放送開始で始まった特撮怪獣番組の復活と、ポスト怪獣映画のポジションは目まぐるしくそのトレンドを変化させて行く。

1971年になるとテレビでの第二次怪獣ブームと環境汚染に対する危機感の高まりを反映した怪獣映画「ゴジラ対ヘドラ(1971)」が制作され、ゴジラ映画の根底にあった原水爆の恐怖はより身近な問題となった「公害」にスライドする。本作では脚本として馬淵薫がクレジットされているが、実際には初期の検討稿的なシナリオを提供したに留まり、実態は監督の坂野義光によって殆どリライトされた脚本として映像化されている(この辺りの経緯としては坂野の言により、作品に乗り気でなかった馬淵の執筆姿勢が伝えられている)。

馬淵は続く「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン(1972)」でも検討稿を提供するが、採用は競作となった関沢新一脚本となり、この検討稿を最後に馬淵の映画脚本執筆は終了となった。

一方、エンターテインメント性を基調とする関沢は「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」で脚本、「ゴジラ対メガロ(1973)」「ゴジラ対メカゴジラ(1974)」ではそれぞれ共作の形で原作を提供し、昭和ゴジラシリーズ最晩年までシリーズを支え続けた。しかしながら娯楽産業としての映画は観客動員数と興収の減少に歯止めがかからず、「ゴジラ対メカゴジラ」に続く「メカゴジラの逆襲(1975)」で歴代ゴジラシリーズ最低の97万人を記録、シリーズの休止が決定された。ここに至り、ゴジラシリーズも遂に終焉を迎え、1984年の「ゴジラ」まで暫しの眠りにつく事となった。こうして2人の特撮脚本家の退場と共にゴジラシリーズに象徴される東宝特撮は、20年に及ぶ一つの時代の終わりを迎える事となる。

怪獣映画、それはあたかも日本の戦後復興〜高度経済成長期という時代の移り変わりや、映画産業の繁栄と斜陽という娯楽産業の時流の変化とも不思議な付合を見せる、時代の申し子とも言える存在だった。その存在の中でも特に、彼ら二人の特撮脚本家によって支えられた東宝特撮はこれからも日本の映画史の中での特筆すべき存在として、人々の間に記憶されていくだろう。


2023.11.25 

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